アポジー、ペリジー、ポエジー

アブサロム、アブサロム!』を読み終えて、家にあるフォークナーをすべて読み返そうと思い立つ(といっても五冊程度しかないが)。そして、『響きと怒り』を読了したわけであるけれども、読み終えた後、言葉にならないサムシングが自分のなかで破裂するようであって、それは、まるでこの作品の最後に、白痴のベンジーが突如として叫び声をあげるシーンに似たようなものであり、この感覚に対する解説のようなものは俺に果たして可能であるのだろうか?答えはもちろん出ていて、それは不可能だ、と言っているのだけれど、この感覚を誰かに伝えたい、というおもいは自身のなかで燻るわけであり、それが今、自分に筆ではないが、プラスチック片を叩かせている理由だ。だが、どうしてもすべては三文詩にしかならず、それはそうだ、そんなことが可能であれば、この世の詩を小説を音楽を映画エトセトラ、エトセトラを焼き払うべきであって、自分に可能なのは、うめき声をあげるだけだ。



八月の光』に手をつけるものの、フォークナーの小説には救いなど一切なく、救いようのない、絶望的な、すでに血によって、場所によって宿命づけられた人間の、避けようのない様を描いているので、自分のガラスのごときハートに耐えようのない負荷をかけてしまうので、一息に、大量に読み進めるべきものなのではない気はしている。でも、陰鬱な気分でいるのもキライじゃあない。



また、先日、youtubeにてニーナ・シモンの動画を見る機会があり、これにもただひたすらうめき声をあげることしか出来なかった。これが神々しさ、とでもいうものなのか?でも、僕は霊的な体験をしたことない。



○今日のミゲル


知るか


あわわわ。