リトルボーイ・ファットマン、ロスアラモス・マンハッタン

○フォークナーの『アブサロム、アブサロム!』を読み終わった。
最近は本を読むなんてムードでもなかったけれど、やはり読書は世界で一番好きな
行為であることよ。もちろん読書といっても活字が読めれば何でもいいというかん
じの本の虫というわけでもなく、こういった重めの本が好きだ。しかし、本を読む
ためにはタイミングというものが重要で、お天道様が照っているうちはダメだ。読
めないことはないけれど、すぐ集中力が切れてしまう。もっとも最適なのは脳がよ
い感じに疲れてきて日が沈んだ後だ。ほとんどの人が重要な活動を終えてチルアウ
トしている頃だ。そこで疲労している脳を酷使して決して読みやすいとは言い難い
文字列をなめ回しているときの、至福ともちがう、喜びともちがうが、自分以外の
誰にもまったく必要とされていない、ともすれば単なるガラクタにすぎないもの、
そして自分にとってもまったくのガラクタであることが100パーセント否定できな
い、なにがしかをディグっている、掘りあてている感覚、パねえ。地球上のほんと
んどが夜であればいいのに。
もはや、惑星の運行にさえ憤りをかんじるようになってしまった。



○突き詰めると、狂気とイノセンスの区別はなくなるのではないか?



○狂気というものを、その萌芽でもいいから、宿していない人間を想像できない。
その人の動物と人間を分かつ部分が顕わになったときに狂気をかんじるのかもしれな
い。包み隠さない欲望であるとか。限りなく包み隠そうとしても漏れてくる欲望であ
るとか。
もしくは人間であることの嫌悪からも狂気をかんじるのかもしれない。この場合は人
間に不可避の動物性の否定であり、崇高さだとか、限りなく無機的なものを志向する
のだろう。そして、他人に理解しがたい企てを試みるのだろう。この両者の違いは自
らの動物性の意識、無意識から生じるだけなのかもしれない。
でも、その人が人間と動物との均衡状態をやめ、限りなく動物に近づいていったなら
狂気というか脅威をかんじるだけだろう。きっと彼/彼女はきっと僕には想像するこ
としか許されない素敵な場所へと旅立ったのだとおもうし、興味の対象からは外れる
だろう。その軌跡には興味はあるが。



なぜ、かくも狂気というものに惹かれるのかは分からないが、狂気というものに惹か
れたことのない人とは話が合わないだろうな、ということは予感というか体験として。



○今日のミゲル


欧州ツアー中らしい。アムステルダム公演のときに、ツイッターで"Paradiso"とつぶや
いてて、アホぽくていいな、とおもいました。




さよーなら。